奥多摩町・小河内地区を中心に、住んだり働いたりしている素敵な方々を紹介するコーナーです。今回は、お隣の丹波山村にあるパン屋さん、<きのしたベーカリー>のご夫妻、木下 美佐(みさ)さん、武久(たけひさ)さんを取材しました。

※文中、美佐さんの発話は無記、武久さんの発話には”(武久さん)”と注釈をつけています

 

山梨県丹波山村。奥多摩町に隣接したこの村に、夫婦で営む小さなベーカリーがある。

名前は、きのしたベーカリー。

国道411号線から1本入った小道にある、いわゆる”街のパン屋”さんだ。

 

「お待ちしてました〜!」

優しい声と笑顔で出迎えてくれたのは、木下美佐さんと、ご主人の武久さん。

 

ショーケースには、メロンパン、クリームパンなどの菓子系、カレーパンや高菜のおやきといった惣菜系など、常時15〜20種類が並んでいる。もちもちとした、柔らかい仕上がりのパンがラインナップの中心だ。

「ご飯代わりに食べてもらえたら、っていうのはありますね。1合炊いちゃうと、量が多くて食べきれないお年寄りもいて。焼きたてのパンが売っていたら、みんな喜んでくれるかなって。それに、子どもたちにも食べてもらいたいじゃないですか」

「隣の奥多摩からも小菅からも来てくれるんです。Twitter経由で知っていただく方が最近は多いですね。『美味しかったよ!行きました!』って書いてくれるのが嬉しくて」

 

 

近隣はもちろん、他県から訪れるお客さんも多い。

「埼玉や千葉からもお越しいただいています。この前、岐阜からいらした方がいてビックリしました」

近所の方はご飯代わりに、遠方の方はお土産代わりに。棚に並ぶ商品はあっという間に売り切れる。だから、パンを焼くのは1日3回。焼きたてパンの心地よい香りが、窓越しに漂う。

 

きのしたベーカリーがオープンしたのは2017年11月。人口600人弱の小さなこの村では、比較的新しいお店のひとつと言えるだろう。

丹波山村を含むこのあたりの自治体には人口減少と高齢化の波が押し寄せ、商店の多くが休業・閉店している。新しいお店がオープンすること自体、大きなニュースだ。

「地元の方には『えぇ、ほんとうにお店はじめるの?』ってびっくりされました(笑)」

「普通の人なら採算とれないだろう、って考えるよね。成功する、っていう確信はなかった。失敗したらどうしよう、不安はもちろんあったけど、なんとかなるんじゃないかな、っていう気持ちで始めたんだよね」(武久さん)

 

丹波山村でベーカリーを開業する。確かに、商圏人口や立地を考えると、素人目にも「どうしてこの場所でパン屋?」と不思議に思うかもしれない。

きのしたベーカリーをはじめる2年前のこと。木下夫妻がパンづくりを始めるきっかけとなる、出来事があった。

「朝起きて、おばあちゃんの支度をして、デイサービスに送り出して、家事をやったあとに仕事に行くのが日常でした。介護する必要がなくなって、おばあちゃん中心で動いていた時間がぽっかり空いてしまって」

同居していた、武久さんのお母さんが介護施設に入居することになり、美佐さんはいわゆる”介護ロス”に陥った。

「すごく時間が余るんです。どう過ごしたらいいんだろう、と」

 

自分がやりたいことはなんだろう。時間を穴埋めするための、他のなにかを探していた。

 

「むかしから職場やご近所さんに、手料理をおすそ分けするのが好きだったんです。もらった人が喜んでくれることが嬉しかったんだと思います」

ある日、美佐さんは勤め先だった歯科診療所の医師から、ちぎりパンのレシピを渡された。

「すごくパンの好きな先生だったんで。『美佐さんなら作れるよ!』って言われて、じゃあ作ってみるか、と」

 

「粉をこねて出来上がった生地が、ふわっふわに発酵してパンになるんです。触ると気持ちよくて癒やされるんですよ」

「当時は機械を使っていたわけでもなく、手持ちの道具はオーブンレンジくらい。暇さえあれば作っていたので、腱鞘炎になったりバネ指になったり。突き詰めたくなっちゃうんですよね。作ったパンは『よかったら食べてください』って知り合いの方にお渡ししていました」

パンづくりは時間もかかるし手間もかかる。ぽっかり空いた時間と心が、すこしずつ埋まっていった。

「あんぱん、メロンパン、ベーグルとか、いろんなパンを作っていました。『どうぞどうぞ』と配っているうちに、『美佐ちゃんのパン、売ってほしい』って言われるようになって。でも、現実的にパン屋をやるのは無理だろうと思っていました。主人は働いているし、私ひとりで手ごねして少量を作っても採算がとれないし、お店の経営のことは分からなかったし」

「私も主人も実家が自営業だったので、『商売は大変だなぁ』っていう気持ちもどこかにあったと思います」

 

美佐さんのご両親はワサビ屋を、武久さんのご両親はお菓子屋を村内で営んでいた。自営業の厳しさを知っている2人が、ベーカリー開業を決断した理由は何だったのか。

「大変だとは思っていたけれど、商売も嫌いじゃなかったんですよね。丹波山村にパン屋があったら、みんな喜んでくれるんじゃないかって思ったんです。丹波山村の人が、丹波山村でパン屋をやる。作ってる人の顔が見えるパン屋さん、って素敵だなぁって」

「主人が『やりたかったらやってみれば?』って言ってくれたのが、踏み切るきっかけになりました。『店を立ち上げるまでのことは俺がやるから。年をとってからは出来ないだろう』って。かたちにしてくれたのは主人です」

パンづくりは美佐さん、開業に向けた準備は武久さん、きのしたベーカリー開店に向けて夫婦二人三脚が始まった。武久さんは準備に専念するため、村役場を早期退職。後戻りはできない大きな決断だった。

「なんだろう、勢いだけはあるんですよ。とにかく気持ちだけで始めたというか。手続きも打ち合わせもみんな主人がやってくれました。『始めよう』って言ってくれたのはお父さんだもんね?」

「うん。美味しいものをつくれば、なんとかなるんじゃないか、って」(武久さん)

 

みんなに、美味しい焼きたてのパンを食べてもらいたい。美佐さんの強い思いは、夫婦ふたりの力でかたちになった。

お店は自宅のすぐ隣に。空きスペースを有効活用するため、コンテナを改装したコンパクトな作りになっている。奥は厨房、手前は販売スペース。

「材料の仕入れ、仕込み、パンになるまで全部2人でやっているので、忙しいですね。火曜日はお休みをいただいて、コンテナの中でもくもくと仕込んでいます。扉も閉まっているし、お客さん、いらっしゃらないじゃないですか。だからすごく、孤独なんですよ」

「営業日は、お客さんが来てくれてお話できるから嬉しい。『来てくださった!』みたいな、嬉しそうにでてきませんか?(笑)来てくれると本当に嬉しいんです」

 

美味しい焼きたてのパンを食べてもらいたい。

開店当時、店頭に出していたスタンド看板に、2人はこんなメッセージを書いた。

<いらっしゃいませ きのしたベーカリーです 生地はすべて無添加生地 食べる方の顔を思い浮かべながら 安心・安全なパンを造っています>

そこに”美味しい”の文字はない。代わりに並ぶ、”安心”、”安全”という言葉。

「添加物を使えば、何日でもふわふわのパンを作れるかもしれない。だけど、お年寄りやお子さんでも安心して食べてもらえるパンを作りたいし、食べてほしいんです」

添加物は使わない。安い油脂やマーガリンも使わない。国産小麦を使い、無添加生地で、いつも焼き立てのパンを提供する。

「クリームとか砂糖とか、いろいろ混ぜれば甘くてキャッチーなパンは作れるんですけどね」(武久さん)

いつも買いに来てくれるお客さんのために、飽きてしまうような味付けはしない。原価が高くなろうとも、いい材料を使い、毎日食べたくなるようなパンを焼く。

 

「食べてもらえたら、美味しい、って分かってもらえるかな、って」

“美味しい”という形容は、口に含めば広がるその味のことではなく、作り手の思いを含めて感受した結果なのかもしれない。

 

きのしたベーカリーが、ますます美味しくなっていく。

 

インタビュイー:木下 美佐さん・武久さん
インタビュアー:谷木 諒
取材日時:2019/06/11

アクセス

住所:〒409-0300 山梨県北都留郡丹波山村2074
電話:0428-88-0620

※国道411号線(青梅街道・大菩薩ライン)を走り、由香里荘の看板が見える小道を入る。丹波山村立丹波中学校のさらに奥、突き当り付近にあります。

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